豪商列伝

 “足で稼ぐ”をモットーとする近江商人の家に生まれた伊藤忠兵衛(当時栄吉)は、11歳から行商に出され、麻絹布の「出張卸販売」で成功。明治5年、29歳で大阪に呉服反物店・紅忠(現在の「伊藤忠商事」・「丸紅」の前身)を開店。晩年は海外進出にも力を注いだ。生没年は1842(天保13年)~1903年(明治36年)。
 近江国犬上郡豊郷村の呉服太物を商う紅長こと五代目伊藤長兵衛家に1842年(天保13年)、二人目の男児が出生。後の忠兵衛、当時の栄吉だ。紅長は店売りもしたが、近隣各地へ盛んに行商に出かけていった。栄吉も11歳になったとき、兄・万治郎のお供をして商いに行かされた。父は、次男の栄吉はいずれ家を出て独立するのだから、早くから商いに慣れた方がいいと判断したのだ。
  兄の万治郎は持っていった荷を楽々と売りさばいたので、栄吉はこれくらい自分ひとりでもできると軽く考え、次は一人で行商に行ったが、ほとんど売れなかった。商売は難しいことを痛感する。難しさが分かってこそ本物の修業が始まる。
 1858年(安政5年)、15歳になった栄吉は名を忠兵衛と改め、いよいよ持ち下り商いに乗り出した。彼は麻布50両分を伯父の成宮武兵衛から出してもらい、最初なので伯父に連れられて豊郷村を後にした。荷持ち2人を連れ船で大津へ、そして京都伏見から大阪へ。八軒屋に着いて、常宿にしている問屋で荷を開いて客を待ったが、折からの激しい雨で買い手が一向に姿を見せなかったので、やむなく和泉から和歌山へと足を延ばして、ようやく57両の売り上げを得た。純益は7両だったが、初商売としてはまずまずだった。
 これに気を良くした忠兵衛は、伯父に頼んで次は山陽山陰と西国の旅に出かけた。そして、下関で紅毛人との交易で賑わう長崎の噂を耳にした忠兵衛は、伯父の制止を振り切って長崎へ向かった。物情騒然たる幕末の長崎に近づく商人はほとんどいなかったため、現地では品薄で、忠兵衛は大いに歓迎されて思わぬ利を拾った。
 ところで、忠兵衛の九州での麻布の持ち下り商いに立ちはだかったのが「栄九講」という一種の同業者組合だ。同じ近江商人でも神崎郡や愛知郡の持ち下り商人たちがお互い結束して、他地域の商人を締め出そうと組織したものだ。そこで、忠兵衛は真正面から「仲間に加えてもらえませんか」と乗り込んでいった。栄九講の仲間たちは当然の如く拒否した。
  それでも忠兵衛はめげず、栄九講の宴会に飛び込み、反感と敵意に満ちた視線を一身に浴びつつ、「同じ近江の新参者です。皆様の後について商いの道を学ばせていただきたいと存じます。どうかよろしくお願いします」と臆せず、堂々と熱弁を振るった。その姿に栄九講の幹部たちは遂に新規参入を認めることに決めた。そして、忠兵衛は1年後には栄九講の代表に選ばれたという。彼の優れた資質が発揮されたのだろう。
 その後、持ち下り商いの商圏を長兄の万治郎改め長兵衛に譲って、1872年(明治5年)、忠兵衛は大阪・本町二丁目に呉服、太物店を開いた。それは大きな岐路であり選択だった。その頃、明治新政府が誕生して中央集権が実現。近江商人の持ち下り商いもその存在価値を失い、行商をやめ、定着化が始まった。忠兵衛は仲間より一歩先に動いたのだ。忠兵衛30歳のことだ。
 忠兵衛は近江から招いた羽田治平を支配人として、合理的な経営法を志した。画期的な褒賞制度をつくって、販売成績のよい者に歩合を出すことにした。店員は近江の出身者が多く、採用すると豊郷村にある自邸に住み込ませて、掃除や使い走りをさせつつ、読み書き算盤を習わせて、十分仕込んでから大阪の店へ送り出した。忠兵衛はいち早く丁髷を切って、店員とともにザンギリ頭とした。
 その後も①月に6回夕食会を開き、支配人・番頭・丁稚といった身分の垣根を取り払って自由に意見をたたかわせた②従来の習慣を改め、明治20年代から商業学校出身者を採用した③大阪ではこれまであまり扱わなかった関東織物を大量に仕入れて京物とともに売りさばいた④明治17年頃から現金取引を主義とした⑤英国、ドイツとの外国貿易に取り組んだ-など数々の斬新な経営手法を打ち出し成功させた。
 伊藤忠財閥の二代目当主、二代目伊藤忠兵衛(1886、明治19~1973年、昭和48年)は16歳で事業を継承。父である初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した「伊藤忠兵衛本店」を発展させ、「伊藤忠商事」と「丸紅」という2つの総合商社の基礎を築いた。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

 大丸百貨店の始祖、下村彦右衛門は、京都伏見で生まれた。下村家はもともと摂津の国、山田村の郷士の出身だと伝えられているが、祖父の代には伏見の町で古着問屋を営んでいた。当初、曽祖父の住んでいた河内を記念して、“河内屋”を屋号としたが、祖父が京の五山の送り火、大文字に魅せられ“大文字屋”と改称した。祖父・久左衛門の三男・三郎兵衛が二代目を継いだが、これが彦右衛門の父だ。三郎兵衛の子供たちのうち、長男が早死にしてしまったので、次男の長右衛門が跡を継いだが、彼は優柔不断で怠け者だった。そのため家運は次第に傾いていった。元禄12年(1699)頃のことだ。
  大文字屋は京都の色街の一つ、宮川町に質屋と貸衣装の店を出した。三男彦右衛門は父の言いつけで、この店を手伝った。彼は人並み外れて背が低かった。そのうえ頭ばかり大きくて、福助人形そっくりだと、人にからかわれたが、じっと我慢して、いつもニコニコと人に接した。19歳になった頃、彦右衛門は祖父の跡を継いで古着屋を引き受けた。毎日、大風呂敷に古着を包んで背に負うと、とことこと京都の市中まで運んで行って売るのだ。それは実入りが少ない割に、辛くて果てしのない労働だった。休みなく働き続けて23歳のとき、勧める人があって村上光と結婚して、一男をもうけたが、5年後に離婚している。
  享保2年(1717)、苦労の末、伏見の一隅に小さな店を開いた。これがいわば大丸の誕生だった。そのとき、壁に掛かった柱暦に記されていた文字をヒントに、○の中に大と書き、これを商標とすることに決めた。○は宇宙を表し、大は一と人とを組み合わせたもので、それなら天下一の商人を意味することになると彦右衛門は解釈した。
  彼は店の者を集めてよく教え諭した。“商人は諸国に交易して、西の産物を東に流通させ、北の商品を南に送って、生活の資を商い、それによって自分も応分の利を得て、その身を養うものである。だから決して自分の都合中心に考えてはいけない。必ず世間のためになり、人様の生活に役立つ品を商わなくてはならん。世のため人のためになってこそ、はじめて商いが発展するのである”
  「現銀正札販売」、それが彦右衛門の商法の中心だった。享保11年(1726)、彼は大坂の心斎橋に共同出資の店を出し、2年後には名古屋店、続いてその翌年には京都柳馬場姉小路に仕入店を開設した。当時の商人は、「江戸店持京商人」といって、江戸に販売店を開いて、京都に本店あるいは仕入店を置くことを理想としていたからだ。これは人口100万人と世界一、二の人口を擁しながら、江戸はその半数が武士階級で、その他にも職人や商人が多く非生産者がほとんどを占めていた。そこで一大消費地江戸に販売店を開いて、当時最大の呉服の生産地京都に仕入店を置くというのが商人の理想とされていたのだ。
 現金掛け値なしという正札販売は先輩の三井越後屋が最初に行ったものだが、
大丸屋の彦右衛門はいいことを見習うのに遠慮は要らないとばかり、大いにアイデアを模倣した。三井越後屋の貸し傘宣伝法もちゃっかり取り込んで“大丸マーク”入りの傘を雨の日に貸し出して、江戸の街々に大丸印の傘を氾濫させた。神社や寺院に手拭いを寄進して、手洗い場に吊るしてもらった。
  店員には賭け事を一切禁じていたが、お客には福袋を売り出して、一等賞に振袖を賞品として進呈した。こうした才智と才覚による新商法は大いに当たって、大丸はやがて江戸でも評判の呉服商店の一つに加えられた。
 大丸は繁栄に繁栄を重ねたが、創業者の下村彦右衛門はまだ56歳だというのに、早くも隠居を宣言した。50代から先は大丸屋の運営を支配人に託して、彦右衛門は半ば隠居の心境だった。茶の湯や謡曲を楽しみつつ、もっぱら家訓をつくって子孫への戒めとしようとした。
  彼はたとえその人が目の前にいなくても、得意先を呼び捨てにするようなことを許さなかった。客に上下をつけるな、たとえ子供が買いにこようとも、大名がこようとも同じく客として扱うべし、目先だけの商いを決してするなと戒めた彦右衛門は、商いに誇りを持っていた。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」
  
  

 五代友厚は大阪株式取引所、大阪商法会議所などを設立した、大阪財界の父といってよい働きをした。そして、大阪を近代的商都へ発展させる功労者の一人となった。渋沢栄一が関東で商工会議所や株式取引所を設立して、多くの事業を生み育てていったのと並び称される功績だ。
 五代は天保6年(1835)12月26日、薩摩国鹿児島の城下町で生まれた。幼名は才助。五代家の先祖は島津18騎の一人で“銀獅子”と称していた。その五代家の五代目、秀堯と妻やす子との間に生まれた次男が、後の友厚だった。兄徳夫、姉広子、妹信子といった兄弟とともに生まれ育った家は松林の中という静かな環境で、父は儒学者として知られ、藩内にあっては町奉行を務めていた。ただでさえ質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学んだ。
 14歳になった時、琉球公益の係を兼ねていた父親が、帰宅すると奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。それは、藩主がポルトガル人から入手した輿地図だった。父が兄の徳夫に声をかけなかったのは、兄がコチコチの保守主義者で、外国の話をすると真剣に怒り出すからだった。その点、友厚は早くから異国の文物に興味を持って、これが世界地図だと知ると、食い入るように眺めていた。 
  そして、その地図には薩摩はおろか日本も載っていないことを教えられる。それなのに、国内ではやれ薩摩だ、やれ長州だといって互いに相争っている。どうして力を一つにして外国に負けないような国力と技術力をつくろうとしないのだろうか-と疑問を持つ。
 藩主が父に申し付けたこの地図の模写を、友厚は一人で引き受け二枚分を一気に筆写した。そして一通を藩主に献上して、残る一枚を自室の壁に掲げた。地球は丸いというので、直径2尺(60㌢)ばかりに球体を作って、そこに世界地図を貼り付けた。そしてそれに彩色をした。球体にしてみると、さらに世界の様子がよく分かった。
 16歳になった友厚は藩候に建白書を出して、海運の隆盛を図って、学生を遊学させるべしと主張した。その願いが聞き届けられ、友厚は長崎出張を命じられた。当時幕府は長崎に海軍伝習所をつくって、オランダ人教官を雇って若い武士たちに航海術を学ばせようとした。そこには幕臣勝海舟、榎本武揚、佐賀の大隈重信、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎、長州の高杉晋作、井上馨、紀州の陸奥宗光、福井の由利公正など各藩の英才が集まっていた。これらは後に明治を背負って立つ傑物となった人たちで、彼らは藩の枠を越えて交友を持った。友厚の青春の舞台はこの長崎だった。
 慶応2年(1866)2月、イギリス、ベルギー、ドイツ、オランダを歴訪して、各種の工場や病院などの施設を視察し帰国した五代は、産業振興と富国強兵のニューリーダーとなった。そして御納戸奉行格に任じられて、藩の産業経済の中枢に位置する身となった。まだ32歳の時のことだ。このころの世界的な視野の広さは坂本龍馬を凌いだといわれる。明治維新が成立すると、彼は西郷隆盛や大久保利通とともに新政府の参与に任じられた。薩摩が実行してきた産業立国と富国強兵策を、今度は中央政府にあって断行することとなり、大いに意欲を燃やした。
 明治新政府が樹立されたとはいえ、意識としてはこのころはまだ、個々に出身藩の殻から抜け出せない人物が多かった中で、五代は薩摩藩士の意識からあっさり脱却した。そして明治2年、五代は大久保と協議のうえ、実業の道を進むことを伝え、大阪へと向かう。大富豪、山中善右衛門(鴻池)、殿村平右衛門、広岡久右衛門たちを集めて、まず銀行の前身ともいうべき為替会社と通商会社を大阪に設立することを要望した。ちょうどその頃、大蔵省をやめた渋沢栄一も銀行をつくって、実業界のリーダーとして出発している。その後、五代は鉱山業、紡績業などに乗り出したほか、天和銅山(奈良)、半田銅山(岩手)など4銅山を経営、たちまち鉱山王となった。
 五代は堂島米商会所の組織化、大阪株式取引所の開設、大阪商法会議所の創設などに次々取り組み、商法会議所が生まれると彼は初代会頭に推された。現在の商工会議所の前身がこれだ。明治13年、彼は現大阪市立大学の前身の大阪商業講習所を設立し、商家の子弟に、近代的な経営学を教えることにした。続いて大阪製銅所、馬車鉄道、関西貿易社、共同運輸会社、阪堺鉄道、大阪商船などの事業化に参画して、さながら会社づくりの神様の如く、多くの経済組織と企業づくりを行った。
 明治18年6月、糖尿病を患った五代は、9月25日、東京の自邸で永眠した。51歳だった。商業家というよりも商工業界のリーダーとして、関西財界の基礎づくりに功績を残した五代は、いまも鹿児島と大阪商工会議所にその銅像が遺されている。

(参考資料)三好徹「政商伝」、邦光史郎「豪商物語」、佐江衆一「士魂商才 五代友厚」、筑波常治「島津七〇〇年」 
  
  

 広瀬宰平は住友400年余の歴史の中で、中興の元勲と称えられている人物で、明治の住友の初代理事となった。また、安治川下流の改修に尽力、関西財界の基礎確立に貢献した五代友厚らと大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪商船会社を創設した。
 宰平は1828年(文政11年)、近江国(現在の滋賀県)野洲郡八夫(やぶ)村(現在の中主町八夫)に住む北脇理三郎の次男として生まれた。幼名は駒之助。北脇家は元武士の出身で土地の名家だった。宰平の姉の田鶴子は、武佐村の代官伊庭正人に嫁いで伊庭貞剛を産んでいる。この貞剛が後に叔父宰平に勧められて当時泉屋と称していた住友へ入って二代目総理事となった。宰平自身、父の弟、叔父治右衛門が住友にいたため、住友家に勤めることになったのだった。
 宰平は1836年(天保7年)、9歳のとき、叔父に伴われて伊予国(愛媛県)に赴き、11歳のとき別子銅山の勘場(事務所)に奉公することになった。そのときの泉屋の家長(当主)は九代友聞(ともひろ)だった。以来、彼は友視、友訓、友親、友忠、登久、友純と、57年間に七代の家長に仕えることになる。
 当時の住友の家業は、別子銅山の経営と製銅業、現代風に表現すれば精錬製銅業を営んでいた。別子銅山は1690年(元禄3年)に発見され、初めは4000尺の山頂に、純銅の塊がゴロゴロしているのを拾ってくるだけでよかったが、以来150年ほどの間に出銅率がすっかり落ち、どんどん坑道が深くなって、坑内に水がたまり、この水抜きに苦しんで、さらに別の坑道を掘るというように、経営が苦しくなってきた。
  そして別子銅山は、第十代友視の頃は毎年1万両という巨額の赤字を生み出す厄介ものになっていた。そのうえ飢饉が続き世の中が不景気で、鉱夫の給金も払えなくなってきた。そんな頃、宰平がこの別子銅山へ奉公したのだ。
 別子銅山の勘場には4000人の男女が暮らしている。支配人以下住友系から派遣されてきた店員が詰め、給料の計算や出銅量の記録や食料の配給、資材の手当てその他の事務一切を処理している。11歳の駒之助は支配人の甥なので、古株社員や悪童たちも表面は遠慮しているが、裏ではさんざんしごきや意地悪をされた。その厳しさに耐えて、彼はよく働いた。
  26歳になったとき、当主友視のお声がかりで、大坂から嫁をもらうことになった。さらに結婚後は、家長の意向で江戸店の支配人、広瀬義右衛門の養子となって広瀬家を継ぐことになっていた。最初の妻とは死別。1860年(万延元年)、義右衛門は町子と再婚した。
 米騒動が起こるなど幕末の動乱期、別子銅山の舵取りを任されたのが広瀬宰平だ。38歳と若い総支配人だった。折から二度目の妻とも死別するという家庭的な不幸を忘れるためにも広瀬は献身的な働きで別子銅山の危機に立ち向かった。1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いに勝った薩長軍が大坂・住友本店の吹所(精錬所)に封印、銅蔵の製品を没収してしまった。また、別子銅山も川田小一郎(後の日銀総裁)を隊長とする一隊が接収にきた。
  こうした窮状に住友本店の番頭たちが会議し、別子銅山の売却を当主に進言。当主もやむなくこれを受け入れようとしたとき、広瀬が熱弁を振るう。そして「住友が今日あるのは別子銅山のお陰、別子は当家の大黒柱です…」などと説き、当主を翻意させたのだ。
 その後、広瀬はフランスから技師を招くなど改善と近代化を進めて別子銅山を蘇らせ、五代友厚とともに大阪財界の発展に貢献した。

(参考資料)佐藤雅美「幕末『住友』参謀 広瀬宰平の経営戦略」、邦光史郎「豪商物語」

 幼名を鉄次郎といった新七が越前敦賀の生家を出て、京都三条大橋東入ルの角田呉服店に丁稚奉公したのは文化11年(1814)、12歳の時だった。新七は明けても暮れても呉服の荷を背負って大津、膳所、草津と近江の町々を行商に歩いたが、思うように売れなかった。主家も衰運とみえ、新七が奉公して3年足らずで、遂に主家は倒産してしまった。
  そこでまた別の呉服屋に再就職して、コマネズミのようによく働いた。すると捨てる神あれば拾う神ありで、烏丸通松原上ルに米屋をしていた飯田儀兵衛が、よく働くというので目をかけてくれた。そして、新七を婿養子に迎えたいと申し込んできた。飯田儀兵衛は、滋賀県高島郡の出身なので屋号を高島屋と称していた。そこで、新七は飯田姓を名乗り、高島屋の後継者となった。 
 養子になった翌年、隣家に空き家ができたのをきっかけとして、古着屋を開くことにした。このとき、彼はこれまでの奉公で貯めた2貫500匁で店を借りたり補修を済ませたりしたので、仕入れのカネがなかった。やっと店はできたが、並べる品物がないと考え込んでいる夫の前へ、妻・お秀はたんすの引き出しを開いて、嫁入用の着物を差し出した。「これを並べておいてください」と。着物は四季それぞれ一着あれば間に合います。それにまたいつか買って頂けるでしょう。それまでどうかこれをお店に並べて売ってください-という。
  お秀は跡取り娘だというのに、よくできた妻だった。それ以来、彼は仕入れてきた古着や綿服を肩にして、また江州通いを始めた。それは昔の姿と変わらなかったが、以前はただの奉公人、いまは小さくても一家の主だった。彼はその頃、四つの戒めを考えて、信条とした。
その一、確実な品を廉価に販売して自他の利益を図るべし。
その二、正札掛値なし。
その三、商品の良否については、明白に顧客に告げ、いささかも虚偽あるべからず。
その四、顧客の待遇はすべて平等にして、いやしくも貧富貴賎によりて差をつけるべからず。
客の選り好みをせず、誠実第一を心がけるべしと、彼は自らに言い聞かせた。
 天保元年(1830)、烏丸通松原上ル西側、北から3軒目の借家を、家賃月1歩2朱200文で借り受けた新七は、10年目の再出発を図った。この店が、いわば今日に至る高島屋の出発点となったものだが、この店を彼は3年ほどで買い取った。時の老中水野忠邦が節約政策を打ち出した頃のことだ。新七は早朝の6時に大戸を開いて、一家揃って掃除に励んだ。そのため高島屋よく気張るといって評判を呼んだ。この評判がやがて信用のもととなった。古着を主体とした商いは1年、1年と信用がつき顧客も増えていって営業規模が大きくなってきた。
嘉永4年(1851)、娘のお歌に婿養子を迎えた。花婿は寺町今出川に住む上田家の次男直次郎で、少年期から呉服商に奉公していた実直な26歳の青年だった。養父となった初代新七はこのとき50歳、直次郎は新次郎と改名して、新七とと
もに家業に精を出した。
 時代は幕末、大きく変わろうとしていたときだった。新七父子は、いろいろ世間の声を聞いた結果、高島屋は木綿と呉服を扱うことにした。新次郎は仕入れのため北河内、中河内と歩き回り、現金払いで木綿地を買い求めた。仕入れ現金払いが新七の方針だったが、現金払いは資金の手当が大変だった。また、幕府の土台が揺らぎ始めた時期でもあり、なかなかモノが売れない時代に突入していた。
 文久3年(1863)、薩摩・会津藩と長州藩との間で激しい戦闘となった「蛤御門の変」のあおりで大火災に遭った飯田新七一家はまず家財道具を本圀寺へ運んだ。二代目の新次郎は丁稚たちを督促して、土蔵内に全商品を運び込んだ。一晩中続いた火災の翌日、焼失町は811町に上り、京都の中心部の大部分が焼け野原と変わっていた。ところが、新七の指示で土蔵の中央に風呂桶を据えて水を張り、要所要所に水を満たした四斗樽を何本か配しておいたのが奏功、土蔵も商品も無事だった。
高島屋は土蔵前に急ごしらえの店をつくって、焼け残った衣料品を売り出した。すると着の身着のままの人もおおかったから、あっという間に売れ、二代目が大量に買い込んで困っていた木綿地も含め売れに売れた。初代63歳、二代目39歳のことだ。
 二代目は53歳の働き盛りで急逝したが、二代目夫人の男勝りの見識と統率力によって、高島屋は存亡の危機を切り抜け、この後、明治時代の呉服商として見事に発展していった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」