歴史群像2

 緒方洪庵は優れた蘭方医で、幕末から明治維新にかけて活躍した大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、長与専斎、佐野常民、高松凌雲、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)など数多くの人材を輩出した蘭学塾「適々斎塾(適塾)」の主宰者だ。
 緒方洪庵は当時最も恐れられていた病の一つ、天然痘の予防法である種痘を日本で本格的に広めた一人だ。1849年(嘉永2年)、洪庵40歳のとき、京へ赴き種痘を得、古手町(現在の大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始め、迷信のはびこる世の中の誤解や悪評に屈することなく、種痘の普及に努めた。日本最初の病理学書「病学通論」を著し、天然痘予防に尽力。また1858年(安政5年)、コレラ流行に際しては「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」と題した治療手引書を出版し、医師に配布するなど日本医学の近代化に努めた。
 緒方洪庵は備中国足守藩士、佐伯瀬左衛門の三男として足守(現在の岡山市足守)で生まれている。諱は章。字は公裁、号を洪庵ほか、適々斎、華陰と称した。生没年は1810(文化4年)~1863年(文久3年)。
 1825年(文政8年)、大坂蔵屋敷留守居役となった父とともに大坂に出た。翌年から4年間、中天游の私塾「思々斎塾」で学んだ。1831年(天保2年)江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。1836年(天保7年)、長崎へ遊学しオランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学び、この頃から緒方洪庵と名乗ったようだ。
1838年(天保9年)、大坂にもどり瓦町(現在の大阪市中央区瓦町)で医業を開業すると同時に、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開いた。天游門下の先輩、億川百記の娘・八重と結婚。この後、6男7女をもうけている。1845年(弘化2年)、過書町(現在の大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入し適塾を移転した。洪庵の名声が高くなり、門下生が増えて手狭になったためだ。
 洪庵の若い頃の医学の主流は漢方だった。もちろん蘭方医学の興隆も目を見張るものがあったが、社会的には漢方が圧倒的に強かった。だが、洪庵は西洋医学蘭方の道を選んだ。杉田玄白の「蘭学事始」より11年後、洪庵17歳の時のことだ。
洪庵の特色はその語学力の冴えにある。医者としての名声もさることながら、その数多くの翻訳によって、緒方洪庵の名は広く世に知られた。適塾はいつしか医学塾にとどまらず、次第に語学塾の性格が強い塾へと発展していった。吉田松陰の「松下村塾」を思想教育の塾とすれば、適塾はいわば語学教育・実践教育の塾だった。そして語学を学ぶことは、西洋思想そのものを身につけることに他ならなかった。
 洪庵が医師の本来のあり方を啓蒙するとともに、自己の戒めとした翻訳書がある。これは後に「扶氏医戒之略」の名で世に知られるが、適塾のモットーともなった。十二章にもなるが、そのうちはじめの2章を紹介しよう。
一. 医の世に生活するは、人のためのみ、おのれがためにあらずといふことをその業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧(かえりみ)ず、唯おのれをすてて人を救はんことを希(ねが)ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復活し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。
二. 病者に対しては、唯病者を知るべし。貴賎貧富を顧ることなかれ。長者一握の黄金を以って貧士双眼の感涙に比するに、その心に得るところ如何ぞや。深く之を思ふべし。
洪庵は「医は仁術である」ということを、最もやかましく言ったというか、実践した人物だが、これらの言葉は現代においても必要とされる基本的な医の倫理ばかりだ。
 冒頭に記した通り、適塾からは多くの人材が出た。洪庵の門下は3000人といわれたが、様々な分野で活躍している。長与専斎は肥前大村の出身だが、日本近代医学の発展に尽くし、後に東京医学校の校長になる。橋本左内は越前出身で一般に志士としてのイメージが強いが、彼の本業は医者だ。越前藩の藩校の学長を務め、学制改革に力を尽くした。大村益次郎は日本国軍の創設者だ。佐野常民は佐賀出身で、後に日本赤十字社の創始者になる。高松凌雲は幕府の医官だった。幕府が倒壊した後、榎本武揚と一緒に箱館に行って戦い抜く変わった医者だ。しかし、明治維新後は政府の医学奨励に協力し、後に医療奉仕機関の同愛社を作る。箕作秋坪は有名なオランダ学者だ。福沢諭吉はいうまでもない。
 洪庵は1862年(文久2年)、幕府の度重なる要請により奥医師兼西洋医学所頭取として江戸へ出仕する。だが翌年、江戸の医学所頭取役宅で突然、喀血し窒息により死去、享年54だった。

(参考資料))百瀬明治『「適塾」の研究』、童門冬二「私塾の研究」、司馬遼太郎・緒方富雄「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

 井原西鶴はわずか1日で2万を超える句を詠み、10年とちょっとで30もの人気作品を著した元禄の鬼才だ。醒めた眼で金銭を語り、男と女の交情をあますところなく描き、芸能記者にして自らも芸人、そしてエンタテインメント作家として絶大な人気を博した。しかもその作風は実に多様で、江戸時代前期、300年以上も前の人物でありながら、幸田露伴、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、吉行淳之介など近代から現代まで、現在活躍している作家たちにも様々な影響を与えてきた。
 ただ、井原西鶴のこうした名声の割には、伝記的なことがさっぱりわかっていない。資料が少ないのだ。大坂の裕福な町人の出といわれているが、詳細は分かっていない。本名は平山藤五(ひらやまとうご)、生没年は1642年(寛永19年)~1693年(元禄6年)。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。晩年名乗った西鶴は、時の五代将軍綱吉が娘、鶴姫を溺愛するあまり出した「鶴字法度」(庶民が鶴の字を使用することを禁じた)に因んだもの。
 西鶴といえば「好色一代男」に代表される小説家のイメージが強いが、もともとは俳人だ。西鶴が1日で2万余句の記録を打ち立てたのは、小説デビュー作となった「好色一代男」を出版した翌々年のことで、その後、作句活動を一時期中断したこともあるが、晩年は再び俳句に情熱を燃やしている。15歳の頃から俳諧を学び始め、当時は俳句の方が小説よりも芸術として上位にみられていただけに、終生俳人のプライドを軸にしながら、生涯最後の10年間を小説にも活躍の場を広げたというのが的を射ているのかも知れない。
 俳句の神様とされる松尾芭蕉と同世代で、同じ時代に生きた。だが、「量より質」の芭蕉に対し、西鶴は「質より量」で、記録が先行気味で作品の影は薄い。小説家としての西鶴の作品は、愛欲の世界を描く好色物、武士社会を扱う武家物、説話を換骨奪胎した雑話物、経済生活を描く町人物などに分類されることが多い。
 西鶴の略年譜をみると、15歳の頃、俳諧を学び始め、21歳の頃、人の俳句を採点する点者に、そして25歳のとき「遠近(おちこち)集」の「鶴永」の号で俳句入集。西鶴俳句の初見だ。33歳の正月、俳句に初めて「西鶴」と署名。36歳のとき、生玉本覚寺で一昼夜1600句独吟を興行、「西鶴俳諧大句数」と題して刊行。41歳のとき、最初の浮世草子「好色一代男」刊行。43歳のとき、「諸艶大鑑」(好色二代男)刊行。住吉神社にて一昼夜2万3500句の独吟を興行。44歳のとき、「西鶴諸国ばなし」刊行。
45歳のとき、「好色五人女」「好色一代女「本朝二十不孝」刊行。46歳のとき、「男色大鑑」「武道伝来記」刊行。47歳のとき、「日本永代蔵」「武家義理物語」「嵐無常物語」「好色盛衰記」刊行。48歳のとき、「一目玉鉾」「本朝桜陰比事」刊行。51歳のとき、「世間胸算用」刊行52歳のとき、「浮世栄花一代男」刊行し、この年大坂で亡くなっている。死を迎えるまでの10年ちょっとの間に次々と小説を刊行、濃密な時間を過ごしたことがよく理解される。

(参考資料)浅沼 璞「西鶴という鬼才」、杉本苑子「対談にっぽん女性史 西鶴 好色五人女」